FUTURE HABITAT PROJECT 2022 @宮城県丸森町・岩手県陸前高田市

2021年度から活動が始まった、これから先の「住む」を考えるプロジェクトにて、2022年6月に宮城県丸森町・岩手県陸前高田市を訪問・調査した。

1日目 宮城県丸森町

東京から仙台まで新幹線で向かい、そのまま⾞で丸森町へ。昼頃、斎理屋敷に到着した。斎理屋敷は、大正時代に活躍した豪商、斎藤理助氏の屋敷であり、当時の建造物や収蔵品を持つ郷土館である。ここでは⼩森はるかさんと瀬尾夏美さんによる展覧会「⼭つなみ、⾬間の語らい」が開催されていた。令和元年東⽇本台⾵以前の丸森町の様⼦が写真や住⺠からの語り部が展⽰され、丸森町の歴史と災害の関係が⾚裸々に綴られていた。会場窓際の写真に沿って、丸森町での戦争から戦後の台⾵による町の改修状況が語られた展⽰は住⺠の声、感じ⽅がダイレクトに伝わってくる。町と災害とともに⽣きることの⼤切さと難しさを改めて考えるきっかけとなった。

 斎理屋敷を後にし、向かったのは丸森町の消防団にて活動をしていた宍⼾さんのお宅である。五福⾕川のすぐそばにあるお宅は令和元年東⽇本台⾵にて被災したが、再建し現在も住み続けている。納屋をお借りして今回は⼩林研究室にて⾏った丸森町のリサーチの発表をさせていただいた。宍⼾さんだけでなく、鈴木さんや他の住⺠の⽅も集まってくださり、リサーチにて作成した丸森町の年表を元に様々なお話を聞かせていただいた。


年表を⾒せると地域の方が喜んでくださり、⼩学校などに展⽰できたらいいなど嬉しい⾔葉を頂くことができた。

 丸森町の歴史には、様々な産業に取り組み⽣活をしてきた痕跡が残されている。戦前には軍⾺や農耕⾺の育成を⾏ったり、昭和 40 代後半には「シルクとミルクのまち」として養蚕業と畜産業が発達したりした。その後、化学繊維や安価な輸⼊⽷が⼊ってくると同時に養蚕業は衰退していった。そして桑畑を⽥んぼに変えていき農業にたどり着き、現代では宅地として利用されている。一方、⼭間部では林業や⽊炭の製造が⾏われており、兼業として阿武隈川⽔系での漁業も行なわれていた。その後、プロパンガスの台頭による林業の衰退や、阿武隈川⽔量減少による漁業の衰退などが重なり、丸森町は第⼀次産業の場としては衰退していったのである。

こういった町の歴史には、度重なる台⾵や洪⽔、飢饉によって町は何度も復旧をしなければならない状況が数多くあった。印象に残った宍⼾さんの⾔葉がある。「⼩さなことを重ねるのではなく、⼤きな視点で町を⾒なければならない。復旧で終わらせず、復興をしたいのだ。」学⽣の作成した⼤きな歴史を踏まえた年表が、新たな視点を⽣むきっかけになったとしたら⾮常に嬉しい。

  宍⼾さん宅を後にし、向かったのは、昨年お話を伺った五福⾕川沿いに住む佐久間さんのお宅である。五福⾕川の洪⽔にて⼀度⽬は被災を免れたが、その後の⾃衛隊の復旧⼯事により川の流れが変わってしまい、2 度⽬の洪⽔によって家が被災してしまった。現在は⾃⼒で移転を決意し、もともと家があった場所は畑として活⽤している。しかし、この地に砂防ダムの建設が決まり、来年 3 ⽉には完全に⼿放すこととなっている。災害やその復興のために⾃⾝の⽣活を犠牲にしなければならなかった佐久間さんの⾔葉には努⼒とあきらめが滲んでいるように感じた。

2日目 岩手県陸前高田市

2台の⾞を⾛らせ、⼩野さんに陸前⾼⽥市の全景を⾒せていただいた。道路整備や集団移転などの震災後の現在進⾏形の取り組みと、気仙町と⾼⽥町の合併や⽣業などの歴史的背景を重ね合わせながらお話をしてくださった。

過去に幾度どなく襲った津波が、この町の転換期。3.11の津波による大被害が注目を浴びているが、チリ地震などの過去の災害事例を振り返ると、伝承がうまくいかなかった歴史が浮かび上がってくる。津波の被害を受ける恐れのある地域への国道の動線計画や中心市街地の移転が実行された背景には、昔の人によるまちづくりの言い伝えが生かされていない部分もあるのであろう。

3.11の復興過程においては、気仙町と高田町の間での中心地をめぐる議論もあった。古くは違う町として復興を重ねてきた故に、それぞれ復興への考え方がありプロセスのズレが顕在化してしまったのであろう。どちらも土地への愛があるからこそ起こったことである。

その後、道の駅⾼⽥松原およびJR陸前高田駅近くにある慰霊碑を訪れ、それぞれの設立の背景にあった住民のお気持ちなどミクロなお話も伺った。 観光で訪れる人の多い道の駅高田松原よりも、地元住民は震災以降の米沢商会が見える慰霊碑を3.11の日には訪れる。米沢商会は、現在旧市街地の位置を示す唯一の場所である。この場所を残すために住民と行政がぶつかった過去も含めて、地元住民にとっての3.11の象徴となっている。

今後も復興を重ねていくこの地における多様な⼈の⼼境を聞くことができ、現地に⾜を運ぶことでした得られない感覚に駆られた。

その後、産直はまなすにお伺いし、吉⽥さんにインタビューをした。吉田さんの娘さんも一緒に私たちを迎え入れてくださり、3時間にも渡る貴重なお時間をいただいた。吉田さんは広田湾の埋め立てが問題になった際、住民側の代表となった漁業組合で中心的に活動をされてきた方である。この運動は、漁業従事者を中心に住民反対運動が広まり、十数年にもわたる活動を経て、埋め立て計画を白紙にしたというもので、この地域では有名な話だ。その後も町の中心に立って他の反対運動にも参加するなど、地域を守る活動に精力的に活動されてきた。

吉田さんのお話から見えてきたのは、反対運動と生業の関係性だ。広田湾の埋め立て問題に対する反対運動の背景には漁業の話が切り離せない。広田湾の広域を埋め立て、石油コンビナートとして運用するという計画は、裏返せばその海で行われていた漁業が失われるということだ。自分たちの生業が失われるという共通の悲しみ・焦りに対し住民は強く結束し、反対の声を上げることが出来たのだ。この反対運動には、唐桑や気仙沼の人も参加したとのことであった。海を舞台にした生業によるネットワークは陸よりも広い範囲を繋いでおり、そこには目に見えない繋がりが発生していたのが伺える。

このような市民運動は現在の陸前高田では起きにくくなっていると吉田さんは言う。埋め立て問題をきっかけに、新しいものに対して住民の意識は慎重になった。しかしその後、今まで行政に対し反対運動をしていた人たちが行政の中心に立った。これにより箱物行政となってしまい住民は市民運動へと動きにくくなってしまったのかもしれない。

この町に限らず、生業の場が失われることはその土地においてどんなに悲しいことなのだろうか。時代が進むにつれて、人は土地に固有して働く農業・漁業から離れ、土地に関係を持たない働き方が主流となった。震災により、会社などの勤め先も一度流された。しかし、自分の働き場所・生活を新たに獲得することが出来れば他のことに対しては他人事という感覚になってしまうのかもしれない。一度生業で繋がった町は、生業の変化により繋がりが薄くなってきているのだ。3.11でよりこの関係は明白になった。この問題を今後の震災復興の中で最優先事項として中心に捉える必要があるのだろう。

吉田さんは反対運動の話だけでなく、幼少期に経験した戦争の話もしてくださった。戦後70年が経過し、その時代を生きていた人の経験を直接聞くことが難しくなってきた今、非常に貴重な時間であった。陸前高田における反対運動を経験した人も同じように少なくなっていく。町の大事な歴史を後世に残していくために今回の記録は大切なものとなった。

はまなすを後にした後、再び⼩野さんにインタビュー。聳え⽴つ堤防を下からと上から眺め、陸と海の境界に⽴つ巨⼤な壁の迫⼒を肌で感じた。

また、震災後の避難経路や高台の位置関係なども⾒せていただき、市の防災体制のリアルを知ることもできた。明治三陸地震、昭和三陸自身、チリ地震の津波高が記されており、この美しい町を飲み込んでいった自然の恐ろしさを体感した。

3日目 岩手県陸前高田市



陸前⾼⽥市役所の永⼭さんに案内していただいた。ここでは⾼⽥町・今泉町の⼟地利⽤整備や川環境の管理体制など⾏政的な復興事業についてお話を伺う。今までの課題と今動き始めたプロジェクトについて実際に町全体を歩きながら教えてくださった。

震災復興として市全体の大きな課題となっているのが嵩上げ地の活用法である。嵩上げがスムーズに進まず、完了までに時間を要したことにより、自主的に移転したケースが多い。また、高台移転地区における現状として人の繋がりに重点を置きながら進行しており、新たな地区ごとにも昔からのコミュニティを意識して取り組んでいるとのことであった。このように、まだまだ多くの課題がある陸前高田だが、新たな取り組みもたくさんある。今年の秋にオープンする博物館や始まったピーカンナッツの栽培、みんなの家プロジェクトなど、地元の⼈と⾏政が共に取り組んでいる復興プロジェクトの詳細を知ることができた。

道の駅⾼⽥松原で昼⾷をとった後、リアスアーク美術館と気仙沼市東⽇本⼤震災遺構・伝承館を訪問。震災から 10 年以上が経った今でも残されている被災物や遺構を⽬にし、今後も語り継がれ、⼈々の記憶に刻まれることの⼤切さを痛感した。

2011.3.11 にテレビの向こう側で⾒ていた⾵景が、⽬の前に残されていることを⾒て、改めて多くの⼈の命を奪った⾃然災害の脅威とこれから災害⼤国である⽇本が⽴ち向かっていかなければならない課題など多様な観点から災害を⾒ていくことの必要性を考えた。

1年前